詩客 自由詩時評

月1回 第3土曜日更新

自由詩時評319回 『花脈の幻葬』黒崎水華 と『ミトロジアデバイス』ひだり手枕(共に2025年ライトバース出版刊)を中心に 髙野 尭

 たんてきに黒崎水華はこの世ではないセカイを描いている。いや、そうとも言えるのだが、そもそもが自身の心的深層に堆積し、鬱屈した心の闇をコトバとして無意識に外化させているのではないか。それは生きている人間なら誰もが抱え込んでいる心の闇・無意識なのだが。ふつうヒトはその闇には無暗に近くづいたりはしないし意志的に近づこうと思って渡っていける領域でもない。だから意識と区別されるのだし、思い通りにならなく、それはなにげに厄介な沈殿物なのだ。それはふだん触れられない外地といってもいい闇の領域にあるのだ。と、ボクの中では、黒崎水華の詩に触れるとそんな小見が、直観が湧きたってくるのだ。とともに何か怖ろしげな気分に引き込まれていく。

 言葉たちはいつもきっと近くにいてくれるのだろう。けれどそうでないとしても念じれば呼び出せる。そんな気がしていて、夢の中やちょっとした茫洋の真っ白な白昼で、スイッチを切り替える。そんな瞬間が訪れるなら、真っ先に言葉の群れに飛び込んでみたい。飛び込んでしまえばリアルな日常とちょっとだけ違う奇妙なセカイが現れるかもしれないから。そのセカイを遊覧する。あるいは呼びかけさえすれば寄り添ってきてくれる装いを変えたフェーリックなコトバたちに出会えるかもしれないから。たぶんふだん出会えない暗闇の中に埋蔵されている、息を潜めて隠されたコトバたちを目覚めさせ、劇的なその瞬間に立ち会うために、だろう。

「言葉を殺戮せよ
     そしてその手でやさしく埋葬するのだ」

「箱森樹海」

 

 言葉への愛憎表現というより言葉を愛するがゆえ、殺戮された華麗で美しい言葉たちは、新たなオーラを纏い再生する。と同時に蘇生した詩人の身体を取り囲み始めるのだ。
 だが詩人身体になついてくる言葉たちの顔貌は、異邦の地から舞い降りてきたようにいささかいかめしい。というのも詩人との相愛関係を為すコトバたちだからこそ、自在に現れてはとりとめない詩の身体として局所にシュールな綾を為していくからだ。しかも飽き飽きする過去の言葉の汚れを拭い去りながらだ。

天使の歌声が記録される頃
私たちの讃美歌はもう意味を必要としなくなる

「天庭の牢獄」

 言葉は天使の吐息なんだから、……人間にわかる意味など纏いはしない。その息吹を感じられる心さえまだ無事であるなら、とそう詩人の呟きとして聞こえてくるようになる。

このように言葉は自由の羽を伸ばし始める。

うなだれた首筋に鮮やかに散っていた
花嵐の後は酩酊を望んでいるのか) 
耳朶は月の光を聴いている

「乱杭菌」

 また「麒麟の鱗」では幻想界を舞台にしながら詩人の日常を垣間見せるかのような、柔らかで「瑞々しい半透明のそれを月光に透かす」なにかアットホームな気配さえが漂い、不気味なこの幻想界を一時和ませるのだ。

「雷鳴は雨を読んでみたい子どもの歌です」
「甘やかさないで寝かせなさい」

麒麟の鱗」 

 まるで子どもに怪しげな絵本でも読んであげているような気配が漂ってこないだろうか。「死の顔を蒐集すると部屋は胡乱になる」(「蜜色の翳」)のように一見コワモテのコトバたちだが、それらは非現実における日常世界を表すエートス(雰囲気)として機能させているのだ。むろんホラー的な雰囲気と言い換えることもできるのだろうが、「死の顔を蒐集する」(「同」)などのように、現実を否定し肯定された非現実世界への鳥羽口としてのメタファーなのだ。

「気づいたら肺の中で水が歌い出していた」
「わたしたちは輪郭を求めて酸素を吐き出す」
「詩の言葉が流れ着くのは海なのか」

(「名無し川」)

 とめどめなく不安を負いながら脱ぎ捨てた過去の言葉たちに念を押すように別れを告げるのだ。
 しかしその反復的な情念を担う言葉たちは一見強迫的でありパラノイアックな身振りによって異化されたコトバたちとして、しだいに自律的なセカイを生成していくのだ。現世とくらべ異和的なコトバたちの群れが放つ光粒子の束がカオス化し、原初的な風景と空気感を醸しはじめる。しかもその運動は読み手の経験的なクオリア(質感、実感)の助けによってイメージ化が果たされていくのだ。なぜならほんとうの不気味さや不思議な感覚には何か(何らかの単語)としては名付けられない、名前を付けたとたんに逃げ去ってしまうのが、クオリアだからだ。

 花脈は言ってしまえば葉脈なのだが、葉脈とは栄養補給のための通路である。相似的な比喩になってしまうが、脳神経組織の親分というか、大動脈でもある。植物にも細胞組織があり細胞神経物質がある。人間と同じように。だから神経伝達物質(感覚された情報)はニューロン神経細胞)を媒介しさらにシナプス(仲介態)という中間的な場所を媒介し、他のニューロンと情報のやりとりを行っている。このときニューロンが発火することによって心が作動するらしいのだ(茂木健一郎、『脳とクオリア講談社学術文庫)。そう考えていくと、植物にも心があってしかるべきだ、ということになりはしないだろうか。だから詩人は何かそのような心のしくみを無意識に知ってか知らずにか、は、わからないが、名付けられないクオリア(感覚質)のセカイの「原型」を受け止め近似的なコトバによる詩の構築を目指しているように見えてくるのだ。現代詩の(もしあるとするなら)停滞しつある紋切型から脱皮しようと、詩の世界を一旦「空洞」化(現象学的還元のようにか)したうえで、革めてコトバの「配列を」組み直そうと図っているのではないだろうか。

(いいえ、それは脳内の箱舟で溺れかけているのですよ……) 

「招待状、絵空事の晩餐へ」

 イリュージョンに奉仕する語群の狙いは、脳内ニューロンの発火いかん(どのように発火するか)にかかっているからだ。
 自分だけの沈黙を描こうと意志する黒崎の魔性は、詩人としての単独性と特異性をシュールな技法で表出させることによって、さらに、イメージの時代的画一性をあやうくも心なく遁れ、ただただその負性を自己自身が生き直すことに賭けると同時に、他者へのエールを胚胎させるのだ…。

 その黒崎ワールドが地下的暗黒劇だとするなら、ひだり手枕のセカイはどのように譬えられるのだろうか。粗削りだがそれゆえ意図的なゴツゴツ感が詩に勢いを与えた前作『パンケヱキデイズ』でみせた、日常的心象をかいまみせる静かでありながらも憤怒の情動を飼いならし内省させ、言葉本来の和的線状性の韻律にのせる。やがて噴出していく抑制された感情の幕を破り言葉を武装化させる。なにやなら出動態勢を取らせる話者のこの勢いは、ふいにコトバをメタファー化させ、直接的な内言を隠しながら、その武器に込められた仮構的なコトバ(仮面)を駆使しつつ自由運動する仮構セカイを演じた現実描写批判の刃は、『ミトロジアデバイス』において、その刃の矛先(もしくはペンタイト)を何に向け、またどのように研がれたのだろうか。それともいったん鞘に収め数多のメタファー(擬き)の狂乱する幻想界で、コトバスラムの構築へと、かつての刃を焼き直し、したたかにパワーアップを図る鍛造をコトバの試みているのだろうか。

記号が血を纏い
言葉を機械に喰わせる
分解されるのは
世界だ

エスキモーメカニズム」

 トリスタン・ツァラはかつて『種子と表皮』の中で、「導かれた思考」と「導かれない思考」という言い方で、既存世界の秩序的思考と非秩序的思考を対立させ、ヨーロッパの近代意識に対抗させる非近代性としての表現を模索した。いろいろな対立軸を比喩的に並べられるとボクは思うのだが、例えば資本主義対社会主義、伝統主義とモダニズム、階級制と非階級制、はたまた宗教とニヒリズムなど様ざま言い換えられるだろう。文学の世界に限って言えばそれはおそらく、フランスの批評家ジャン・ポーランに倣うまでもなく、伝統的なレトリック対レトリスムルーマニアの詩人イジドール・イズによって提唱されたモダニズムの一流派)などの構図が思い浮かんでくるだろう。
 もう一度ひだりの詩句を引いてみよう。

誰かが倒れて
なにかが
意味を吐き出す

エスキモーメカニズム」

みずからを吊るすためだ
ぼくらはにわとりだ

ギーク・ショウ」

 ひだりの刃(ペンライト)が向ける対象が現実的な世界に対する心象にあることがこれでいくらか知れるだろうか。これらは、実はメタファーではなく譬喩なのだ。わかりにくいだろうか。十八世紀のイタリアの哲学者ヴィーコは、書記言語の発祥時期における記号的な書記の役割を、人間がなんらかの認識を得た結晶体として詩的記号と呼び、類似的な認識様態をその詩的記号に還元させたのだが。今のように当時は比喩自体が細分化されていなかったこともあるのだろうが、それは類似性というより感覚的な心象を感覚的な言語として結晶化させたのだ、と言えばよいのかとどのつまり言葉が身体の延長のように、書記であっても連続的に連携されていたということなのだ。ヴィーコ自身はそこまで踏み込んで言ってはいないのだが、感覚に根差した詩的記号について明確に述べている(詳しくはヴィーコの代表作『新しい学』上・下巻中公文庫を参照されたい)。

またしても血を吸われゆくのか
・・・
偽りの出穂しゅつすいにあきなわれてゆくからだよ
やつら
馬楝がリムジンでくるぜ気をつけろ
まるで版画にされてしまうよ

「ペイン・ペインの尻」

 前作『パンケヱキデイズ』がヴィーコ的な感覚類似だとするなら、この『ミトロジアデバイス』は理知的感情の類似性というやや知的なコトバ化だと言えようか。ただし両怍が偏向的なスペクトラム(境界線のない範囲)を、つまり点としての語に意味連関させず読み手には何か共感を媚びた一次元的な印象・イメージ化が心不全のように喚起され、二次的、三次元的な印象・イメージ化を図るように読み手を、快・不快の現実原則としては快感的な不快へ導びくのだ。それによって読み手の詩にたいする抵抗感は、経験的にも創造的にも何も当てはまらないという不能感(腑に落ちない感じ)を抱かせるのだ。よって詩のセカイ観は断片的で、しかも読み手自身が分断されている不能性(絶望)に墜ちらせるのだ。あたかも神経組織の発火強度を上げるための意図を含んでの所業なのか。ともあれ、にぎやかな雑多を引き連れた自由という名の詩の自由を照らす爽やかな太陽の下で、視覚的な濃淡の度合いを過激にフル活用しつつ、この世の絶望感を掻き分けようと詩人は全力疾走している。悪夢を阻止し生き抜くためにだ。ふと戦前ダダの新吉や恭二郎を彷彿させる。
 ただ一つ気になるのはゴシック体で強アクセントをつけられた語りの部分だ。意図はわかる。超越的な天上人の口を借り、思いのたけを示唆する率直な詩人の思いが吐露されている。ありえないがあってほしい正義の観方であり、幻想界の主人でもある。だがゴシック体に読み手が慣れていってしまうとだんだんその刺激感覚がマヒしてしまいはしないか。ボクはそんな危惧を抱いてしまう。もちろん詩人固有の体内リズムやその強度は推し量りようがないので、言語化されたその痕跡としての厚みを感じ取るしかないのだが。


 第十一回詩歌トライアスロンの選考会がこの六月二十九日に例年通り公開選考会として挙行された。ボクはこの現場に同席させていただいたのだが、なにより候補者たちの作品の完成度と、選考者たちの熱いエネルギーに圧倒されっぱなしで、選考会がはねた後の打ち上げの席でも、この作品と批評が同時的に言語として飛び交う共生感に魅入られるばかりに、その現場での選考者の発する一語一語に耳を傾け、一部はメモを取っていたにもかかわらず、打ち上げの席でも感想を述べることは叶わなかった。
 言葉を失うとはこのことを指すのではないかと思えるほどに、様々な思いの見えない信号が飛び交うこの現場にしばし心が占領されたためかもしれない。たとえば選考者の一人野村喜和夫氏が批評言語として放った「長嶋茂雄的な、パーンと打球を返すような」という評言にオノマトペ的(無意味的)表現を感知させる野村氏の肉声に、まさに長嶋を想起させるとともに、長嶋を哀悼する身体的身振りと錯覚させ、それは評言として総括されてしまうのではないか、と思わせる批評の裾野の広がりだ。豊かな選者それぞれのステージをも現出させる自由さがあるのだ。
 堀田季何氏が、三詩型融合部門の受賞作「ゆうれいとミルクパズルについてのスケッチ」(畳川鷺々作)への評「スペースの取り方がゆったりとしてよい」という評者の公平性を期すための基準の明示。それは中家菜津子氏の「世界観のまとまり」や「先達者への偏り」などの評言にも表れていた。
 最期に紙数が尽きてしまったので一言だけ三詩型融合部門での受賞作「ゆうれいとミルクパズルについてのスケッチ」について感想を述べさせていただく。選考者の先の評言なども踏まえた上での感想になるが。この作品の醍醐味は三詩型融合の価値を最も簡明にしかも自然的に体現させているところにあると思う。俳句、短歌、自由詩はそれぞれの規範性と戯れながら本質的な差異を内包させているのだが、それぞれがその形態位置から逸脱し、イメージ連関と言葉の触手を絡み合わせるその手腕によって、この作品は群を抜いている、とでも言えようか。