連載を休んでいる間に世界では様々な変化が起きた。文学に直接関係のあるところではAIの急速な普及が一番大きなトピックであるように思う。無論、ウクライナやイランで起きていることも重要である。目が離せない。前線だけでなく、あらゆる市街地、サイバー領域を含むあらゆる空間が戦場化し、また、銃後化している。SNSですら様々な勢力が仕掛ける認知戦の戦場と化している。もう何年も前から荒廃があり、一瞬前の世界の構造を絶えず錆び付かせるそれは、例えば、自動車産業の生産体制に忍び込んで生身の人間を排除したり生産物を兵器に変えたりする形で広がり続けている。環境に優しい車を作っていた筈であるが、サステイナブルな社会はどうしたのか。自動車産業におけるこの例は戦争経済への移行に伴う荒廃のモデルである。こうした荒廃のほとんどにAIが、少なくともインフォメーション・テクノロジーの急激な進展が関係していると言っても過言ではない。アクセシビリティの高いAIを使用したサイバー攻撃が可能になった現在、国民国家とAIの一体化が真剣に検討されている。それをしなければどちらも滅びることが予見されているからであるが、それをしたところで滅びないという保証はない。荒廃は時間にも影響する。そもそも時間と空間を切り離すことは出来ない。直線的時間の流れが加速している。
勿論、荒廃という言葉には色が付いている。主に数値としての増減(防衛費の対GDP比の増加、新設住宅着工戸数の減少など)でありながら、それだけではない状況の変化をネガティヴに捉える主観的な言い方である。しかし、他に言いようがない。荒廃を〈単なる社会の軍事化ではなく、世界の構造が更新され続け、人間がその速度について行けない状態〉としても良い。
文学の場合、荒廃という言葉がそう易々と当て嵌まるものであろうか。「妖怪川柳コンテスト」がなくなったり、あるいは、何かの文学賞の応募総数が過去最高だったりということへのAIの関与は疑う余地がない。なくなるものがあるにせよ、文学賞の数自体は増え続けている。需要が増えるから供給が増えるのであって、増えているのは読み手ではなしに書き手である。文学賞や投稿欄に応募する書き手は書くことそれ自体を目的としているわけではない。読まれることを目的としており、他者の存在が前提にある。読むとは何か、という問題が当然にあるが、前提として他者を要求する書き手の総数は何故増えているのか。何故AIを使用してまで書き手市場に参入したいのか。〈書く→応募する→評価される〉という直線的な競争があり、評価されたい欲望がある。AIがこの欲望を増幅させているように見えるが、ひとまず、新規参入が増えているのであるから荒廃には当たらない、という見方はどうやら出来そうである(間違っているかも知れない)。
先述の直線的時間の加速化であるが、現代社会は人間に絶えず未来へ向かって進むことを要求する。わかりやすくするために二分化して述べると、直線的時間とは、円環的時間(神話的時間)に対置される、始まりから終わりへと向かう時間である。ユダヤ・キリスト教的なエスカトロジーの時間構造が世俗化され、進歩史観へと繋がったことは、カール・レーヴィットが『歴史の意味』で論じた通りである。神による完成が人間によるそれに移し替えられたのが現代社会であるにせよ、変化の速度について行けない人、より良い未来を信じられない人、そうでなくても現在のありように違和感を覚える人が増えている気がしてならない。他方で、タイパを重視し、映像コンテンツを倍速再生で視聴する人もいる。加速する時代の中で、時間に対する人間の感覚それ自体が変化している。
随分前に物々交換で入手した詩誌で読んだのであるが、吉川彩子「夜」(『凪』10号、青凪の会、2025年)では作者の観念世界の中に直線的時間が表されている。「一度でも死んだらずっと/名前さえなのれない/冷たいフローリングの上に/転がっている花瓶が銃身を抱いたまま/彼女も爪も死者は死者」という箇所には作者なりの時間の捉え方がある。「名前さえなのれない」時間は物理的時間と違って、死んだらそれで終わりである。その次の連の、「真夜中の十二時のなかに/予感という夜明けがまれに輝くことがある/風の命令をパラシュートで降下させて/まにあえば夜のうちに/砂や防風林を格納し/ひとつの海岸線ができあがる/国境から遠く離れて」という表現は興味深い。詩人はカナリヤ、と昔から言うが、この連は何となく予兆めいている(この詩誌を受け取ったのは今年の1月である)。作者は現実のありように対する自分の違和感と向き合うことで現在の連続の先にある未来を見ている。どこまでも直線的である。時計の長短針が文字盤のⅫを差す瞬間は存在しない。その瞬間に至るまでの間を割っても永遠に割り切れないからであるが、「真夜中の十二時のなかに」というのは面白い表現である。
戦争を書いた詩は詩ではない、ということがよく言われるが、それは間違いであって、現実の戦争やそれに関係することを書くと類想的になりがちというだけのことである。この作品は現在との向き合い方、また、自分と〈書く自分〉の距離などが考えられている。世の中には楽しくて健やかで美しいことしか存在しないという具合に丸め込もうとする感じがないのが良い。
青海賢『掛川詩』『西荻詩』(蒼枯、2025年)の2冊は最近行った東中野の書店で購入した詩集である。作者は同書店の経営者でもある。それぞれの土地に取材した2冊は対になっていて、どちらも冒頭に作者の文章がある。『掛川詩』では、「古本屋をやりたい」作者が、「開業に向けて徐々にせわしなくなるなかで、小説が読めなくなった。そんなときに、ある先輩から詩だったら短い時間でも読めるよ、と聞いて詩を読むようになった。ひとつの詩だけで肩の荷が降りるときがある。せわしなさ故に見えなくなってしまっている日々の基を示してくれている。気配を感じるが見えなくなってしまっている存在に触れようとするアプローチが詩ではないだろうか。」と、独特の詩の定義を述べているが、こういう経路で書き手に新規参入してくる人もいる。「せわしなさ故に見えなくなってしまっている」という箇所は特に興味深い。これは直線的時間の加速化の表現である。因みに掛川は作者の故郷、西荻窪は住んでいた土地らしい。『西荻詩』の方であるが、冒頭で作者が、「西荻窪を題材に詩をいくつか書いた。どれもしっくりこない。」と述べている詩が収録されているのかどうかは知らない。実を言うと、筆者が初読でしっくりときたのは『西荻詩』ではなく、『掛川詩』の方であった。理由を考えてみたのであるが、2冊の時間を比較すると、『西荻詩』の方が直線的、『掛川詩』の方が円環的である。どちらかと言えばであるが。次の「日課」という作品は『掛川詩』に収録のものである。
円錐の形に空は削られ
空は鉛筆となった
無放図な手は 床の下から伸びてくる
その手を抑えようとしてコンクリートは冷え冷えと
地面に映えた手を摘んで 川へ流す
手を拾った下流の者はそれを埋めて弔った
別れた手に逢いに年に一度祭りがある
手は帰りたがらず涙をする
雨が降る 鉛筆が削られる音
祭は円環的時間のモデルである。1年という周期の中で死者が帰って来る感覚は日本の盆や祖霊信仰に通じる。しかし、「手は帰りたがらず涙をする」と書かれている。通常の祭では死者は帰って来て、また帰って行くことで円環が完成する。この作品では死者の側が円環を拒否する。祭は成立していても存在そのものは円環を受け入れていない。最後に降る雨は単なる季節の循環ではない。雨音が鉛筆を削る音に重なることで世界は再び冒頭に戻る。削られる鉛筆は少しずつ短くなる存在でもある。世界が永遠に繰り返されることと、存在が少しずつ失われることが重なっている。つまり、この詩は円環的時間と直線的時間(不可逆的時間)が同時に成立している作品である。
最後に、これも物々交換で入手した、進藤ひろこ『からだの森のわかれみち』(思潮社、2025年)から、「全身の毛穴」という作品である。
躰の奥の方から、ごわごわした
息の塊のような
こわばりが出口を求めて蠢きだす、夜
何度も、代わりにトイレに行く
(塊だと胸やけするから
細かく切りわけて
時間をかけて、消化するように)
息の奥の独房
結晶する間際の、土に埋めたものたち
この世にまきこまれた生きものたちの
等しくカケラとなって
ヒトケのないスキマ、たぐりよせたように
根付いていた、ドクダミの白
いつか雪解けの清水となって
喉元にあふれでるのなら、まるやかに
熟れていくりんごのように、齧れば
どこか、なつかしいような音がするはず
ことばを持ったヒトというケモノとして
全身の毛穴、研ぎ澄ましている
息ぐるしい、夜
一般的に、息は、吸う、吐く、また吸う、の繰り返しである。この作品では息によって時間が測られている。息の奥にある「独房」とは人間の身体である。息は自分のものであって自分のものでない。生死、四季、気の巡りはいずれも循環する。息、空気、大気もそうである。吸う、吐く、森から受け取る、森に送り返す。そういうことを考えているうちに人間が消えていく。意識が主観・客観ということを離れていく。森そのものとして。そうして「ことばを持ったヒトというケモノ」に戻った時、人間であり、詩人でもあり、生物でもあり、森でもある。息がそれらを繋いでいる。この息には仏教思想で言うところの
加速する直線的時間に対して詩は別の時間を開く。荒廃を感じた時、自然そのものになってみるというのは良いかも知れない。人間の外にあるものとしてのそれではなく。